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「配置」「辿り」「記憶」
此の網站(
さいと
)に於ける、オスティナート的に通徹する「主題」に就いて、これまで、明確にしてきませんでした。今般、その稜線を辿ってみたいというのが本頁の目的です。ずっと強調してきました「記憶」なるものが何を意味するのか、ということを示そうとする試論とお考え下さい。
しかしながら、今日我々が意識しつつある書物という知の空間は、そこで我々が、見慣れたものを手かがりに座席を占め、舞台というゲシュタルト形成の場に姿を現わす、見慣れないもの、形になることを拒否し拒否されたものとの出会いを可能にする劇場である、と改めて定義しなおすことができる。
山口昌男『書物という名の劇場』
... 蔵書の並びの合間から、一連のイメージ、一定の精神的原モチーフや原像がより鮮明に放出されました。さらに、かくも多様な像の背後で、はっきりと或いは強いるように、文庫設立と拡充の為に人生の最良の部分を賭した、一人の人物の像が最後に屹立(
たつ
)ていたのであります。
E. カッシーラー『ヴァルブルク博士埋葬にあたっての辞』
第壱.各目的地は着点に非ず
さして難しき話ではありません。
当網站は、ご覧の如く、
個別の論題まで非常に行きにくくなっております
。それは、私が敢えて御訪問者に目的地までの観光(
さいとしーいんぐ
)を強要しているからに他なりません。またそれは、個々に配置している主題自体が、私にとって、此の網站の全てでもないからです。此が意味することは、ふたつあります。
ひとつは、各主題は、所詮、私程度の人間に深く掘り進められるものではないということです。もし私が良心ある網站主人(
うぇぶますた
)であれば、恐らく、三つ四つ程度の主題しか索めなかったでしょう。人様に御開陳(
おみ
)せすべき内容に詰めてゆくには、精々その程度が関の山(
やつと
)と云えましょう。
もうひとつは、あく迄、配置自体が持つ意味を御覧(
おみせ
)せんがためです。これだけ大風呂敷を拡げたのは、私自身、主題を深耕(
でぃべろっぷ
)させるよりも、主題自体の配置にも、或る意味を持たせているからです。
或る一冊の本があったとします。その書物を軸として、貴君が興発される儘に、その興発を裏づける書物群を全て探し、関心の系列を視覚的に意味するように並べてみたまえ、と言われたら如何でしょう? 全員が同じということは、まずあり得ない筈です。仮に、蒐めてきた書物の殆どが同じ本であったにせよ、それらを各自の関心系列として並べさせると、各人で多少の違いが出てくることでしょう。私が申し上げる「文化背景」とは、まさにこのこと。それが「配置」の中に自然に透過されているのです。
個々の「配置」を解読してゆけば、個々の思考や趣向に存する知識過程と途程とが見えてきます。此の「配置」の解読作業を、私は「辿り」と申し上げることにします。そしてこの「辿り」こそ、或る知識に対し、個々の人間が煦育(
あたため
)てきた道程を開示し、それは実際、大きな違いを見せるのです。そして、この「辿り」の内容を列挙してゆけば、それは「配置」という最終的な表象を形成していることが理解できましょう。詰るところ「配置」とは、他者を「辿」る際の重要な「海図(
ちゃーと
)」となるのであります。
例を挙げます。
坪内祐三『古くさいぞ私は』という本を読みますと、坪内氏曰く、卒論が福田恆存、修論がジョージ・スタイナーとのこと。スタイナーは、吾が関心の高い批評家であり、スタイナーへの到達という地点では、私も同じと言えましょう。しかし、坪内氏は恆存から廻って(その過程は詳らかではないが)スタイナーへ行き着く。一方、吾がスタイナーの道程は、短絡(
すとれーと
)に、由良君美大先生であります。スタイナーへ辿り着く路が幾筋もあることは疑い得ませんが、恆存からの路程もあるのかと愕きました。しかし、各人の「辿り」がまるで違う「杣径」の漫歩からであっても、何処かでふと合流することもあります。私は、この坪内氏の「配置」を是非知りたいと思うようになりました。別の「辿り」を手中にしたいがゆえです。
私としては、当網站の主題配置により、私が「辿」ってきた部分を表象させ、訪問者にも「辿」っていただきながら、この網站主人の自己(
ぷろぱてぃ
)をご一読いただきたいとするものでございます。畢竟、個々の「配置」を解読せんとするは、海図を与えられたに他なりませぬ。その海図を「辿り」直すことこそ、その人間の「文化背景」を繙くことに連なるように思います。
第弐.辿りと記憶
かくなる「辿り」とは、己が他者の「配置」を解きあかす場合と申せましょう。反面、己が己の「配置」を「辿」ることは、「解読」ではなく「記憶の復原」という謂となります。以前、私が「記憶の場」として電網を fault tolerance 化していると申した意味はここにあります。
この網站に於ける「配置」は、具体的に申し上げれば、己の文化背景を「書棚または音盤棚そのものとして透過させ、さらに非物質的に外在する場へ変成させる行為」であると言えるでしょう。
己に対して吾が「配置」が喚起するのは、まず書棚や音盤棚の「ゲシュタルト」であります。しかし実態は、その中の指定位置に置かれた知識や物欲ということになります。詰り「配置」を辿れば、自分の「棚」をゲシュタルトとして想起し、次に棚の個々の位置に埋め込まれた本や音盤の知識を想起するという、記憶術の応用を行っていることになるわけです。
そして、ゲシュタルトへと「配置」する作業を「記憶術」(現在形)、「配置からの還元行爲」を「記憶の復原」「ムネモシュネの召喚」(過去形であり未来形の両義)と私は勝手に呼んでおります。
実は、これ迄の当網站では、棚のゲシュタルトというより、個々の物品配置に気を取られ過ぎてきました。ところが、棚のゲシュタルトに非ざれば、「形になることを拒否し拒否されたもの」は次第に疎外され、記憶から失われてゆくことがわかりました。
音盤は未だしも、特に書物の場合、書名や本という名辞存在の排列だけでは、底流に存する「接続性」が忘れ去られると学習したのです。逆に、底流に存する接続性を、ひとつのゲシュタルトとして形成させ直すことこそ、吾が所期の目標に適うものであるとわかった次第です。
また他方、過去の配置に新たに加えたきことどもが出来した場合、かなり連続した内容でなければ追補もできず、結果、新たな項目を追加・接近させる以外、巧くゆかぬこともわかりました。これも、縦割りで纏められる音盤の方が、作業しやすかったというわけです。
改めてこのような整理をしながら、自分が望むベクトルを奈辺に安着(
そふと・らんでぃんぐ
)させるか。現在のひとつの解決方法が、今の姿であります。とはいえ、私の念頭にある解決方法は、特にこれ一つのみではありません。グレン・グールドが、常に数種類の演奏仕様から組立(
ぷりふぁぶりけいと
)を試みたように、私の場合も、向後、幾つかのテイクを試行的に並べ換えることがあるかもしれませぬ。
最後に。
私が、再三に亘り「吾が網站は窮めて私的なるもの」と申し上げてきた意味は、これでお判りいただけたのではないかと思います。畢竟、この「配置」の中で当網站をご覧の方に、私という窮めて狭き背景を外部へ透過させる役割を担ってきたのです。しかも、私自身には「棚の記憶の復原」から、さらに梱殺した知識と物欲とを自分自身へ復原せんが為に、この網站を形成「しつつある」ことも御理解いただければ本望です。尤も、これは培風(
かぜにのった
)私的遊戯でしかありません。
醉墨軒浮月 鞠躬
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